【1】敬語は,人間を上下に位置付けようとするものであり,現代社会には,なじまないようにも思います。どう考えれば良いのでしょうか。
【解説】
敬語は,古代から現代に至る日本語の歴史の中で,一貫して重要な役割を担い続けていますが,敬語の持つ意味は時代によって変わっています。敬語が人間の上下関係を表すことと密接に関連している時代もありました。しかし,現代社会においては,その人を尊重しようという気持ちを表すこと,その人の立場に配慮すること,その人と親しいか親しくないかといった親しさの程度を示そうとすることなどの意識に基づいて使われていると言ってよいでしょう。
すべての人は基本的に平等です。したがって,一方が必要以上に尊大になったり卑下したりすることなく,お互いに尊重し合う気持ちを大事にしなければなりません。このような「相互尊重」の気持ちを基本として敬語を使うことが,現在も,また将来においても重要です。
【2】尊敬している人には敬語を使って話したいのですが,社会人は,尊敬していない人にまで敬語を使わなければならないのでしょうか。
【解説】
まず,確認しておきたいことは,尊敬の気持ちと敬語との関係です。敬語は,敬意に基づき選択される言葉ですが,敬意は必ずしも尊敬の気持ちだけではありません。その人の「社会的な立場を尊重すること」も敬意の現れの一つです。仮に尊敬できないと感じられる人であっても,その人の立場・存在を認めようとすることは,一つの「敬意」の表現となり得るのであり,その気持ちを敬語で表すことは可能なのです。それは,自分の気持ちを偽っていることにはなりません。むしろ,敬語を使うべき場面で敬語を使わないことは,社会人として,相手に礼を失するおそれがあることに留意すべきです。敬語の役割の一つには「社会人としての常識を持っている自分自身」を表現するという側面もあります。自分自身の尊厳のためにも敬語は使われると言うことができます。社会人にとって,敬語を使うことの意義は,そこにも見いだせるのです。
【3】自分よりかなり年下の,取引先の会社の若い社員や,子供の担任をしている若い教師などにも,敬語を使う必要があるのでしょうか。
【解説】
「敬語は年長者に対して使うものだ。」と言われることが多いですが,実際には,例えば,取引先など異なる組織にいる相手であれば,年齢にかかわらず使われているものです。また幾ら若いといっても,自分の子供の担任をしている教師であれば,その立場に対する配慮が必要になります。
敬語は,単なる上下関係からでなく,その相手と自分との間の立場や役割から考えて使う場合もあります。この中には,仮に自分が年長であっても,相手を立てて使う場合も含まれます。
【4】敬語を使うと,自分の気持ちが素直に表せない気がします。むしろ敬語を使わない方が自分らしさを表すことができるのではないでしょうか。
【解説】
社会生活において,敬語が常に必要になるわけではありません。相手や状況によっては,敬語を使わない方が,かえって自分らしさが表現できたり,相手との心の交流が円滑に進んだりする場合もあります。そのようなときに,あえて敬語を使わないという判断を自分自身で行うことは適切なことです。
一方で,相手や状況によっては,敬語を使わなかったために,相手を尊重する気持ちが十分に伝わらない場合もあり,そのために相手や周りの人々に不愉快な思いをさせてしまうこともあります。敬語を使わない表現を選ぶのか,それともここは敬語を使うのか,相手との関係やその場面の状況をよく考えた上で,自らの判断で決めることが必要です。これは,「自己表現」の大切さが浮かび上がる瞬間であると言ってよいでしょう。
【5】敬語をたくさん使って丁寧な言葉遣いをしているのに,どうも失礼に感じられる人がいるのですが,どうしてなのでしょうか。
【解説】
慇懃(いんぎん)無礼と言われるように,言葉は丁寧であるにもかかわらず,態度は無礼であるということがあります。敬語をたくさん使えば丁寧になるというわけではありません。敬語を使う際に,相手に対する配慮の意識がなく,むしろ見下しているような気持ちがあるとすれば,幾ら敬語を使っていても失礼に感じられてしまうものです。また,表現している内容自体が敬語を使うことに合わないような場合もあります。失礼な内容については,敬語を使ったからといって,その失礼さが消えるわけではあります。
ただし,敬語をたくさん使っているから変だ,などと決め付けることはできません。本当に丁寧な言葉遣いをする人は,そうではない人から見れば,過剰に敬語を使っているように見えてしまうこともあります。自分の基準だけで,相手や第三者の言葉遣いが丁寧過ぎる,あるいは逆に,失礼だなどということは決められません。自分の基準だけが正しいと思い込んで,それを他人に押し付けるようなことは,慎むべきです。
【6】大きな会社なのに「小社」と言ったり,優秀な子供なのにわざと「愚息」と書いたり,自信を持って書いた原稿まで「拙稿」と表すことなどは,何か卑屈な言い方に感じてしまいます。こうした表現については,どう考えれば良いのでしょうか。
【解説】
敬語を使うことによって,相手にかかわるものは,大きく,高く,立派で,美しいと表すことができます(御高配,御尊父,玉稿など)。反対に,自分にかかわるものは,小さく,低く,粗末だと表すこともできます(小社,愚見,拙稿など)。しかし,それは飽くまでも言葉としての約束事を表そうとするものであって,必ずしも実際にそのように認識しているというわけではありません。
このような言い方は,伝統的になされているものであり,卑屈な言い方というよりも,自分にかかわるものを小さく表すことによって,相手に対する配慮を示す意識で使われているものだと考えられます。したがって,このような表現の形が「自己表現」として,自分の気持ちに合っていると思う場合には使えば良いわけです。
このような敬語のほかにも,自信を持って作った料理でも,「お口に合うかどうか分かりませんが,どうぞ。」といった表現などがあります。これも,おいしくないのに勧めるということではなく,自分の判断を押し付けないという意味で相手に対する配慮を示したものです。もちろん,「今日はおいしくできたと思いますので,召し上がってみてください。」というように,自分の判断を率直に表すことで,相手に対する配慮を示すことも可能です。
【7】敬語の重要性
敬語は,古代から現代に至る日本語の歴史の中で,一貫して重要な役割を担い続けています。その役割とは,人が言葉を用いて自らの意思や感情を人に伝える際に,単にその内容を表現するのではなく,相手や周囲の人と,自らとの人間関係・社会関係についての気持ちの在り方を表現するというものです。気持ちの在り方とは,例えば,立場や役割の違い,年齢や経験の違いなどに基づく「敬い」や「へりくだり」などの気持ちです。同時に,敬語は,言葉を用いるその場の状況についての人の気持ちを表現する言語表現としても,重要な役割を担っています。例えば,公的な場での改まった気持ちと,私的な場でのくつろいだ気持ちとを人は区別します。敬語はそうした気持ちを表現する役割も担うのです。
このように敬語は,言葉を用いる人の,相手や周囲の人やその場の状況についての気持ちを表現する言語表現として,重要な役割を果たします。
また,以上のことを別の方向から見直すと,敬語は,話し手あるいは書き手(以下,同じ意味を「話し手」で代表させます。)がその場の人間関係や状況をどのようにとらえているかを表現するものであると言うこともできます。例えば,「鈴木さんがいらっしゃる」という尊敬語は「鈴木さん」を立てて述べる敬語ですが,この敬語を用いることによって,話し手は,自らが「鈴木さん」を立てるべき人としてとらえていることを表現できます。また,「こちらです」という丁寧語は,「こっちだ」と同様の意味を相手に対して丁寧に述べる敬語です。この敬語を選ぶことによって,話し手は,相手を丁寧に述べるべき人として扱っていることを表現できるのです。
このように敬語は,話し手が,相手や周囲の人と自らの間の人間関係をどのようにとらえているかを表現する働きも持ちます。
留意しなければならないのは,敬語を用いれば,話し手が意図するか否かにかかわらず,その敬語の表現する人間関係が表現されることになり,逆に,敬語を用いなければ,用いたときとは異なる人間関係が表現されることになるということです。敬語をどのように用いるとどのような人間関係が表現されるかについて留意することはもとより必要です。それと同時に,敬語を用いない場合にはどのような人間関係が表現されるかについても十分に留意することが必要です。
言語コミュニケーションは,話し言葉であれ書き言葉であれ,いつも具体的な場で人と人との間で行われます。そして敬語は人と人との間の関係を表現するものです。注意深く言えば,意図するか否かにかかわらず表現してしまうものです。そうであるからには,社会生活や人間関係の多様化が深まる日本語社会において,人と人が言語コミュニケーションを円滑に行い,確かな人間関係を築いていくために,現在も,また将来にわたっても敬語の重要性は変わらないと認識することが必要です。
【8】「相互尊重」を基盤とする敬語使用
敬語は,人と人との相互尊重の気持ちを基盤とすべきものです。
言葉は時代とともに変化します。敬語も,社会や人間関係の在り方,言語を用いる場面についてのとらえ方が時代を追って変化するのに応じて,その役割や性格を変化させて現代に至っています。身分や役割の固定的な階層を基盤とした,かつての社会にあっては,敬語も,それに応じて固定的で絶対的な枠組みで用いられました。
これに対して,現代社会は,基本的に平等な人格を互いに認め合う社会です。敬語も固定的・絶対的なものとしてではなく,人と人とが相互に尊重し合う人間関係を反映した相互的・相対的なものとして定着してきています。「敬い」や「へりくだり」という敬語の意味合いも,身分などに基づく旧来の固定的なものでなく,相互尊重の気持ちを基盤とした,その都度の人間関係に応じたものとして,現代社会においても当然大切にされなければならないと理解すべきです。
上述の「基本的に平等な人格を互いに認め合う」あるいは「人と人が相互に尊重し合う人間関係」とは,人が社会の中でそれぞれに持つ様々な立場や役割の違いの存在を無視して言うものではありません。年齢の違い,経験・知識・能力などの違い,あるいは社会集団の中での立場の違い(例えば,先輩と後輩,教える側と教えられる側,恩恵や利益を与える側と受ける側など)や階層(例えば,会社の中の職階)などが存在することを前提とした上で,さらに,これらに基づいた様々な「上下」の関係が意識されるものであることを前提とした上で,人と人が互いに認め合い,互いに尊重し合う関係に立つことを,ここでは「相互尊重」と呼んでいます。「相互尊重」とは,年上の人,先輩,上司,教えてくれる人などに対して,年下の人,後輩,部下,教えてもらう側の人が,敬いやへりくだりの気持ちを持つ場合だけでなく,逆に,年下の人に対して年上の人が,後輩に対して先輩が,部下に対して上司が,教えてもらう側に対して教える側が,それぞれ,相手の立場や状況を理解したり配慮したりする場合をも合わせたとらえ方です。
この「相互尊重」という敬語の基盤は,既に昭和27年の国語審議会建議「これからの敬語」の「基本の方針」の条において「これからの敬語は,各人の基本的人格を尊重する相互尊敬の上に立たなければならない。」と将来に向けて示されたところと共通します。さらに,時を経て平成12年の「現代社会における敬意表現」において,「敬意表現とは,コミュニケーションにおいて,相互尊重の精神に基づき,相手や場面に配慮して使い分けている言葉遣いを意味する。」として,そのような基本認識が定着していることを踏まえて記述されたところとも共通します。
【9】「自己表現」としての敬語使用
敬語は,その場の人間関係や場の状況に対する気持ちの在り方を表現すると「【7】敬語の重要性」で述べました。そして,例えば,敬いやへりくだりという気持ちは,現代の敬語においては人や階層ごとに固定的・絶対的なものでなく,相互尊重を基盤とした相互的・相対的なものであることを上の「【8】「相互尊重」を基盤とする敬語使用」で述べました。これらのことは,敬語の使い方が,「こういう相手には,いつでも,だれでも,この敬語でなくてはならない。」とか「こういう場面では,いつも,皆がこの敬語を使わなくてはならない。」というように,敬語の使用を固定的に考えるのは,適切でないという考え方につながります。この考え方を基本とした上で,敬語の使い方について次の二つの事柄を指針の基盤として提示します。
一つは,敬語の使用は,飽くまでも「自己表現」であるべきだという点です。「自己表現」とは,具体的な言語表現に際して,相手や周囲の人との人間関係やその場の状況に対する自らの気持ちの在り方を踏まえて,その都度,主体的な選択や判断をして表現するということです。この「自己表現」という考え方は,国語審議会答申「現代社会における敬意表現」(平成12年)にも示されています。
例えば,敬語使用に関連して,「心からは尊敬できない人にも敬語を使わなくてはならないか。」とか「相手によっては敬語を使うとよそよそしくなる気持ちがする。それでも敬語はいつも使わなくてはならないか。」といった疑問を聞くことがあります。それぞれ,敬語の固定的な使い方にかかわる疑問です。そのような固定的な考え方は選ばないこと,そして,その都度の人間関係や場の状況についての自らの気持ちに即した,より適切な言葉遣いを主体的に選んだ「自己表現」をすることを目指しましょう。この場合も,「相互尊重」の姿勢を基盤とすべきであることはもちろんです。
二つ目は,そのような「自己表現」として敬語を使用する際にも,敬語の明らかな誤用や過不足は避けることを心掛けるということです。言うまでもないことながら,それを十全に行うために,敬語や敬語の使い方についての知識や考え方を身に付けることが必要となります。例えば,「今の自分のこの気持ちを表現するためには,どんな敬語が適切か。」「こういう敬語を使うと,人間関係や場面について,どんな気持ちが表現できるか。」,さらには前に述べたように「この敬語を使うと(あるいは,この敬語を使わないと)どのような気持ちが表現されることになるか。」と,自らに問い掛ける姿勢が必要となりましょう。これらの問いは,前に挙げた固定的な敬語使用を問うものではなく,「自己表現」として敬語を主体的に選ぶ際の問いです。そのような努力は惜しむべきではありません。